2013年9月22日日曜日

えまーじぇんすってなんだっけ?

かっこ良い、耳触りの良いキーワードを使って人の目を引いてやろうという話があります。テレビ雑誌の広告や政治家の宣伝ではもちろんのことですが、サイエンスの世界でも、論文を通したい、予算を取りたいということになれば、なりふり構っていられないのです(cf. ジンクピリチオン効果)。

複雑系・非線形科学や生物物理学の一部で言われる「創発(emergence)」ということばもその一種かもしれません。他のキャッチコピーと同様に、具体的に何を指すのかはあいまいですが、パターンがひとりでに湧いてくる、ですとか、無生物な成分が寄り集まって生き物らしく振舞う、みたいなことをふんわりと指しているのだと思います。某先生によると、「自己組織化」の次に流行って、今はもう廃れつつあるそうで、次のキーワードを考えないとなあ、とかとか。

ところで「創発」は、字から大体の意味がほぼ明らかではありますが、哲学用語なのだそうです。フランスの若手科学哲学者マラテール(『生命起源論の科学哲学』)によると、言いだしっぺはJ.S.ミル、語の導入はルーウィスで、その流れを汲んで明確にemergence概念を言語化したのはブロード(1925)だそうです。

ブロードの記述はなかなかクリアで、要素から演繹できない性質が、集合になると備わることがあるよ、という話です。図式に直接当てはまるかどうかはともかく、いわゆる還元主義vsそうじゃないヤツとして、こういう議論は科学に限らずいろんなところで出てきます。 ステレオタイプな生物学者の言説としては、こんなのも紹介されています。
われわれが生物学で研究しているのは生命であり、物理学や化学の因果概念で表現できるような現象ではない (Haldane, 1931)
「創発」論への当然の批判として、要素とか還元の定義ってなんだ? ということにはなります。生命とはなんだ→分子を見てもわからない→じゃあ創発だ、というのはいかにも説明になっていません。遺伝子やたんぱく質に対する理解が深まったからと言って生命についてわからない、と言うのであれば、じゃあこいつらの関係性を真面目に考慮にいれることにして、関係性の構成単位(モジュール)を使って説明すれば良いんじゃ?(cf. network motif)。

要素還元的なアプローチには不信感がある、分子生物学は嫌だ、とか思っていても、還元可能かどうかなんて単にデータが不足している・思考の枠組みがまだ足りないとかいう、相対的なものでしょ、と言われたら、反論できないですね。今ある物理学が還元的で、生命現象の理解に足りていないからと言って、ずっと先の物理学もそれ対応できないと言い切る理由は、全然ないわけです。

マラテールはこの「相対主義的な創発論」の立場にあるので、ぶっちゃけ生命現象もいずれ還元されるわ、と結論していますが、彼のいう還元的説明はかなり広いものを指しているようで、そのあたりの感覚は普通の科学者とちょっと違うかもしれません。

例えばシステム生物学なんかは、この15年くらいの大手生物系科学雑誌にむちゃくちゃなインパクトをもたらしていますが、相対的にみれば分子生物学を一階層上でやっているだけと言われそうです。チューリングパターンなんかはいかにも創発っぽいですが、どういう系ならそれが出てくるかが今や完全にわかりきっているという意味では、還元的説明のついた現象です。他にも、more is differentと言いながら作る多体系の物理ですとか、熱力学や流体力学といった下の階層の詳細によらない現象論的な理解(『非線形な世界』)も、マラテールに言わせれば還元的な説明になってしまうので、素粒子物理なんてクソくらえ、とか思って読んでも溜飲は下がらない気がします(そもそも生命起源論の本です)。

興味深いのは、20世紀の頭くらいには哲学界で流行り始めていた「創発ってなに?」議論が、量子力学の成功によってしぼんでしまった、という分析です。ミルも出していたらしい、水素も酸素も気体なのにH20が液体なのは不思議! という創発論に都合の良い例も、水素原子の結合エネルギーは量子論から計算できましたよ、と言われてしまった日にはグラグラです(実際には液体問題は今でも不思議であり続けていますが)。創発論の最重要例である生物に関しても、DNAとかが見つかって、セントラルドグマ的な細胞の機械らしい性質が明らかになるにつれ、還元不可能と叫びづらくなっていったであろうことは容易に想像できます。

そういう意味では、仮に相対的な問題であったとしても、創発がうんたらと最近言い出されることにはそれなりに必然性があるような気もします。加速器がバンバン新しい粒子を見つけてきたり、病気の原因遺伝子が片っ端から明らかになっていったころには、いわば「この還元主義がすごい!」という気風があったわけで、それに比べると今はこれをやっときゃ良かろうという軸が薄いのはたぶん事実だからです。

もちろん、サイエンスの立場からすれば、多体系や複雑系の理論やシステム生物学が実を結んだのは、哲学的概念が先んじていたかどうかに関わらず、具体的な実践によるものです。深い思想や背景がなくても、実践によって気風ががらっと変わっちゃうみたいなことが日々起きてしまうので、概念drivenな科学者はあまりおらず、それゆえ外から見て概念史を記述するのは簡単ではなさそうです。統計・生物物理の分野はそれでも、比較的コンセプチュアルなことを論文や著作で語る人が多いので、それ系の話題を(たまに)取り上げていきたいと思います。